
夢の実現・・・
この夢がなぜ叶ったかは・・・学生時代の頃は、オリジナル曲を世にリリースするには、レコード会社と契約してプロにならないと、レコード(今のCD)は作れなかった。自主制作もありましたが、製品にするまでには費用がかかる時代でした。でも今は簡単に、そして費用も余りかけずに、リリースしてもらえるサイト(会社)がたくさんあります。レコーディングや、CD等の制作まで、支援していただけるし、曲作りとやる気さえあれば、プロにならなくてもオリジナル曲を販売できるようになります。 しかし、それではまだ自己満足の世界で、生計を立てられるまでにはいかないでしょう。ただ、私にとっては、あの時代から考えれば、夢のような出来事になります。47歳のころ病気になって、人生を見つめ直す機会を得て「家族の為に一生懸命働くこと」そして「自分自身も好きな音楽を続けて行くこと」これを最低限の今後の目標として、生きて行くことにしました。 私はこのブログで音楽に関する私のやって来た事、これからやる事などをまとめて行くことにしました。 私の人生を豊かにしてくれた音楽は、今まで私が聴いてきた「曲」や見

若き頃に触れた音楽(小学校時代 その1)
その夢は、小学年の時代から始まっていた。9才離れた兄がいて、当時兄が聞いていたレコードやラジオから流れる音楽に影響されたことは事実である。「タイガース」「テンプターズ」のグループサウンズのレコードがすでに家にあって、「ビートルズ」や「カーペンターズ」をTVで見ていました。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(小学校時代 その2)
小学校卒業の春、「小坂明子」さんの「あなた」がヒットして、その歌詞は、情景が浮かんで来る曲だった。シンガーソングライター(自作歌手)という存在が、私の憧れになった瞬間でもあります。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(中学時代 その1)
中学生になってからは、兄が持っていたクラシックギターを借りて「井上陽水」の「夢の中に」(※写真9)を音楽雑誌の付録本(コード楽譜)を見ながら、指に豆が出来るほど必死に練習した。
ローコードという比較的簡単に押さえられるコードで、G、D、Em、Cなど・・覚えたらすぐ、そのコードを使ってオリジナル曲を作っていた。
今考えると、ギターが上手くなりたいのではなく、シンガーソングライターになりたかったんだと思います。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(中学時代 その2)
何曲か作って、自宅でコンサートを開いていました。その時のドラムは、ダンボールに銀紙を貼った手作りでした。ちなみにエレキギターが欲しくなった私は、友達と初めて秋葉原に行って店の定員に勧められるまま、月賦(クレジット)を組まされ、親からすごく怒られた思い出があります。
そして、そのころは既にビートルズは解散(1970年)し、「ポールマッカートニー」が新たなバンド(WINGS)で、「JET」という曲を歌っていた。その姿を見てバンドの魅力にとりつかれて行った。後からポールがビートルズのメンバーだったことや、耳に残る数々の好きなメロディがすべてビートルズの曲だったことを、はじめて知った記憶があります。そしてポールがベーシストだったことも、私がバンドでベースを弾いているきっかけになっております。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(中学時代 その3)
そして、中学2年の文化祭が、BAND演奏の病みつきのきっかけとなる。
女の子からの黄色い歓声、スターになった気分にその瞬間なれることを味わってしまった定番の動機は、情けないが私にも値する。話しはそれるが、「誰にでも何かをもって輝くステージに立てる。」その何かを探すことが大事であることを何十年か経って気が付くことになる私でした。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(中学時代 その4)
秋葉原に一緒にギターを買いに行った親友(T君)は、後に遊び仲間の違いで、革ジャンとロックンロールの「キャロル」のコピーバンドへ、私はブリティッシュ系ロックバンドの「ビートルズ」、「ディープ・パープル」、「クリーム」等のコピーバンドでそれぞれ別れて演奏した。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(高校生時代 その1)
親友(T君)とは、高校1年になると、またアメリカンハードロックで意気投合し、「キッス」などのコピーBANDで一緒に演奏することになる。私がベースギターへ転向したのもこの頃で、きっと彼に戻って来てもらい、また一緒にBANDをやりたかったんだろう。
その親友も30歳で他界してしまったが、今でも私の家にはその親友が使っていたエレキギターが飾ってある。多分その親友が居なければ、今日までBANDをやり続けてはいなかっでしょう! #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(高校生時代 その2)
高校2年の時、オリジナル曲でレコード(LP盤)を1枚だけ、自主制作したのである。2トラックのテープリールデッキでRとLへそれぞれ録音して、音楽雑誌の広告に載っていたLP自主制作の案内に飛びつき、LPレコード盤を作ってもらった。自分の曲をレコードプレーヤーで聴いた時の嬉しさは、将来、自分の曲がレコード店で売られることを夢見た瞬間だったのであろう!レコード・アルバムタイトル「愛重子美」(アイエスビ)と題した意味は、読んで字のごとく「愛を重ねる子は美しい」・・すごいタイトル付けたもんだ(笑)。ちょうどその頃、世間では、ディープ・パープルから脱退したリッチブラックモア率いる「レインボー」が日本の札幌公演をおこなっていて、そこでファンが死亡する事件がニュースになっていた。 #CD制作オリジナル曲

若き頃に触れた音楽(高校生時代 その3)
私は、高2の同じクラスで、同じアメリカンロックが好きな親友(E君)と出会う、彼(E君)と、「バンヘーレン」を新宿厚生年金ホールまで見に行った際の盛上りは、今でも忘れられない。彼とはその後、大学時代まで一緒にプロになる夢を追い掛けるのである! #CD制作オリジナル曲