47歳の人間ドックで異常が見つかります。後で分かったんですが高倉健さんと同じ病名でした。化学治療でいわゆる髪の毛が抜ける薬で治療し、約1年病気と戦いました。今現在生きているということは、もうすぐ10年経過するということになります。最初医師から告げられた時は、兄も部位は違いますが、同じ病気で同じ年頃で亡くなっているので、家系的に私もそうなったと思いました。
兄の最後を見ていましたので、その病気の恐ろしさは分かっておりましたので、妻のことは当然、まだ子供も高校と中学生で、これからの家族のことや、両親のことなどどうなってしまうのか?路頭に迷うという感じでした。
 

​病気よ ありがとう!

突然の宣告

死んでしまいたかった


ただ、その時、私の心の奥にある思いは、仕事のことやこの先の人生について、目標を失っていたころでもあり、死んでしまうということに、何かそれでもいいかな!と思っている自分も確かにあったと思います。入院前に妻に「私が死んだら、家のローンはこうなって、保険はどうで・・・」なんか話していることが現実なのか信じられませんでした。

遺言と人生の振り返り


治療中、死についてよく考えてました。そして財産なんてないので遺言書いてもしょうがないが、自分の今まで薄っぺらい人生について、向き合ってみようと思い。ノートに今日までの主な出来事を思い出しまとめて行きました。自分の生き方や考え方、家族のこと、両親のこと、友達のこと、音楽のこと、音楽仲間のこと、仕事のこと、全部書留めました。さらに人は何の為に生きるのか?そんなことまで考えてました。書いて分かったことは、人間は子孫を残すため子を産み、そして子孫を繋いだ親を自分で葬ることができたら、まずまずの人生といえるのではないかと。それが叶わない人もたくさんいるが、人間という生き物がこの世界で命を繋ぐというもっと大きな視点で考えれば、子孫を繋いだ人間が一人でもいればいいのかもしれない。それはさておき、子供のころから喘息という病気に悩まされ、勉強もあまり出来ず、というかしなかったという方が合っているかもしれない。全てに自信がなく中途半端で、大学まで行かしてもらったにもかかわらず、目的もあまりないまま、普通の生活という安定を求めた私でしたが、これが後の人生を辛くするのでした。

病気と闘ったこと


この病名は、治る可能性があるのか?ないのか?余命何年?インターネットなどで、いろいろ調べてみました。完全に治るという言葉は、どこにもなく、寛解という少し希望がもてる言葉をみつけた。この化学治療は点滴で薬を投与する方法で、1度点滴投与すると1週間後に白血球や赤血球、ヘモグロビンなどの細胞を消滅させる治療で、細胞を全て消滅させるので、良い細胞、悪い細胞をいっしょに減少させてしまいます。それから2週間ほど具合が悪くなり、自律神経も悪く影響し、熱や痛みもあってもう本当辛い期間があります。それぞれ細胞がまた復活してくると具合もだんだん良くなっていきます。それを8回(8クール)繰り返すのです。その期間、食欲もなくなり、痛みで寝れず、本当に地獄を味わうのですが、私はなぜか、熱を下げるため、医者には言わず、バッファリンを飲んでいました。これがなぜが私には熱が下がり、効果がある8時間おきに飲んで、その熱が下がって気分がよくなる時間を使って、遺言ノートを書いていました。バッファリン自体は病気そのものが治るのでありません。幸い最終的に悪い箇所は目検ではわからなくなる寛解ということで、6クールで一旦治療をおえることが出来ました!。そして半年後、会社に復帰できたのです。

人生のアデェショナルタイム


医者は、「これから定期的に検診を受けて、経過観察をして行きます。再発するタイミングは人によって違って、それまでに他の病気で死んじゃう人もいますし、まぁ普通にやってて下さい。」という言葉はいまでもはっきり覚えております。それは、治療の結果について神様に祈った結果としては、最高の結果に終わったと思い。ただ一般人よりはそんなに長く生きられないことを自覚し、せっかくロスタイム(アデェショナルタイム)をもらったんだから有意義に使わないとバチがあたると思いました。そこで治療中に書いた遺言ノートでまとめたことを目標に生きることにしました。

[死ぬまでにやること]

   その1:両親の最後は、自分の手で葬る

   その2:子供達を結婚させ、自立したことを見届ける

     その3:音楽を最後まで楽しむ

       その4:資金的に家族に迷惑をかけず、それなりの支援ができるように働く

[死ぬまでにやること] 経過報告

 

その1:両親の最後は、自分の手で葬る→父については、私の治療終了後に病気(部位は違うが同じ病気)で亡くなりお陰さまで私の手で葬式をあげることが出来ました。母は現在の健在中、その2:子供達を結婚させ、自立したことを見届ける→長男は、成人し就職したので、後は結婚まで支援して行きます長女は、結婚し嫁ぎました。今年(2017年)になって孫が生まれました。その3:音楽を最後まで楽しむ→・バンド活動は、会社の仲間で2バンド活動中(ラテンロック系のバンド、フュージョン系のバンド)・ソロ活動、オリジナル曲の制作とライブ活動を実施(詳細は別途コーナで紹介)その4:資金的に家族に迷惑をかけず、それなりの支援ができるように働く →・復帰した会社に現在も在籍、東京オリンピックの翌年で定年になります。

恩人

 

その1:仕事関係の恩人

私が、病気で療養中の時、復帰できるのか?体のこと、仕事のこと、いろいろ悩んでた時、丁度会社で「病気する前に担当したプロジェクトが評価され、表彰状を届けてくれました、私はその時、体調がまだ良くなく直接会うことができませんでしたが、届けてくれた表彰状を見て、少し復帰する勇気が湧いたことを記憶してます。その表彰状を届けてくれた方が、仕事面のおける恩人であることは確かです。また会社の中心となる人物でもありますので、何かの時に恩返しできれば本望です。

その2:音楽関係の恩人

1人目は、まだ病気になる前ですが、会社のあるプロジェクトの為に採用した社員が偶然同じ年で、音楽の趣味(ビートルズやフュージョン)も同じで、意気投合しバンドも結成しました。それからまもなく、私が病気になってしまい、彼は私のことを心配してくれて手紙をくれました。手紙の内容は「あなたが好きなベーシストと同じベースギターを買いました。病気が治ったらこれで一緒にまたバンドやりましょう。」と書いてありました。そして私が復帰する際に私の家まで、そのベースギターを届けに来てくれました。彼は彼の別のバンドのライブで私を招待してお客様の前で私の復帰できた喜びを語ってくれました。私は家路に着くまで涙が止まりませんでした。その彼が私の恩人の1人です。

→もう1人の恩人は、私のオリジナルソロを支援してくれている友人です。彼は高校の同級生で、社会人になって偶然に再開しました。その時彼は、「あなたが学生時代に選んでくれたエレキギターがまだ実家にある」と懐かしく話しておりました。そして私の当時のオリジナル曲についても覚えてくれていて、私の曲づくりをとても気に入ってくれていつも「もっと作ってどんどんライブもやったほうがいい!」と応援してくれていました。私はそんな自信も無くいつも断っていました。そして私が病気のことを伝えた際に「知り合いのライブハウスで、そこに出演しているプロのシンガーがいるから、頼んでお前の曲を歌ってもらおう」と提案してくれました。その後、そのことが実現し、「私のオリジナル曲をプロが歌う」という夢が叶った瞬間がありました。また、彼は私とそのシンガーの誕生日がこれも偶然で同じ月日でしたこともあり、いっしょにバースディライブをやる機会をいただき、いっしょにオリジナル曲を歌うことも出来ました。このことは、あの時死んでしまっていれば、実現出来なかったことでしたが、この友人のお陰で、ロスタイムに叶った事の一つになることでしょう!その後、CDをつくるきっかけをくれた恩人でもあります。ただその友人は会うたびに「お前が死にそうだからいろいろやってあげたが、今こうして元気で生きていて本当に騙された(笑)」と言っています。

     

病気になって良くなった人生


今、病気になったことを振り返りますと、私にとっては、病気をした後の人生の方が、やりたかった事も少しずつ実現しているし、仕事もできることはなんでもやるし、そんな私のことを理解してくれる仲間もたくさんいる。ある程度プライドを捨てた分だけ、楽しみも増える気がしてます。少し心に余裕が出来た分、家族とも上手くやっているし、また猫(スー&ラン)という最高の癒し友にも巡り会えて良かったと思っている。今後は、更なる夢を実現するために、時間の許される限り行動に移して行こうと考えております。